「すりガラスの向こう側」
始まりがどんな風だったか、それはよく覚えている。何もかもを隅々まで、というわけではないけれど、あの日のことは覚えている。きっと、忘れてしまったこともあるだろうし、長い月日の中で僕が勝手に作って付け加えたこともあるだろう。僕は五歳になったばかりだった。それは昼寝から目覚めると始まっていた。父も母も僕が起きたことに気づいていなかった。
「勝手にしろ」
父が言った。
「お前が出て行きたいのなら買ってに出ていけ!俺は知らん!」
僕はまだ眠たかったけれど、母を怒鳴りつけている父を止めるためにタオルケットから抜け出した。
「父さん、母さんを怒っちゃ駄目だよ」
目が覚めたばかりだし、電気の点いていない夕方の室内は薄暗かった。でも僕は、あの時僕が言ったことをはっきりと覚えている。
母は僕を見ると青い顔をして、台所やバスルームのあるほうに走っていった。父はしばらく動かなかったけれど、母が乱暴にバスルームのドアを閉める音を聞いて、慌てて立ち上がった。
僕は父より早く、母のいるバスルームの前まで走った。
「母さん!」
すりガラスの向こうの母が、手に持った何かを首に向けているのが見えて、僕は大声で泣き出した。すりガラスの向こうで何が起ころうとしているのか理解できるくらいには僕は成長していた。
「母さん!」
僕は叫びながらすりガラスを殴りつけようとした。とにかく母をバスルームから出さないと大変なことになると思ったからだ。
でも、もう後二十センチというところで、僕の身体は父の右手で抱え上げられてしまった。
「父さん、母さんが!」
身を捩って父から離れようとしたけれど、小さな僕には父を振り払う力なんてなかった。父はすすり泣く母や叫ぶ僕のことなんて目に入っていないかのように、変に落ち着いた様子でどこか遠くを見ていた。
僕はそんな父が許せなかった。
「母さん!放して、母さんが!放せよ!」
父は何も言わない。
「母さんを助けないと!」
父は何もしない。
「僕が、助けないと!」
まるで僕以外この世界に動ける人間がいないかのように、父も母も微動だにしない。
僕は両手で父の頭を押し退け、両足で父の体を蹴り、喉が潰れるくらいに母を呼んで、気を失いそうになった。必死で、「母さんを助けてくれるなら僕なんてどうなってもいい」と神様にも祈った。
そして、もし、神様が本当にいればだけれど……神様は僕の祈りを聞いてくれたんだろう。
母は、たまたま家を訪ねてきた祖母に説得されてバスルームから出てきた。
でも、この時僕が「母さんを助けてくれるなら僕なんてどうなってもいい」と祈ったことがその通りになったのだとしたら、神様は酷い。
どうせなら、僕のことも助けてくれたら良かったのに。
* * *
次の朝はぴったり十一時に目が覚めた。平日以外、携帯のアラームは鳴らないように設定しているからだ。カーテンの隙間から光が漏れ出している。僕は掛け布団の下で心地いい温もりに包まれて、少し寝ぼけ眼で身体を丸め、マンションに隣接する道路を走る車の音を聞いていた。
昔は休日になる度に家族揃って父のワゴン車でドライブをしたものだ。子供の頃、僕は兄と一緒になって外に出るより家でゲームをしていたいと駄々をこねたりもした。
僕はうとうとしながら、家族がいない寂しさを噛み締めていた。まだ夢現に子供の頃の思い出に浸っているうち、段々と虚しさが込み上げてきて、そのうちに奇妙な郷愁と憧れだけが残った。
僕はいつもこんな具合に、ことある毎に幸福だった子供時代に想いを馳せた。それは回想というより空想だった。僕が中学生になった頃から両親の生活は上手くいかなくなり、高校二年生になった頃には家族は完全に崩壊した。だから、父と母に関する今の僕の本物の記憶は性質の悪い亡霊のようなものだった。
実際に、最後に見た父は性質の悪い亡霊そのものだった。ある朝、大学のすぐ側のアパートで一人暮らしをしている僕を訪ねてきた父は、おずおずと決まり悪そうな声で、金がないから食事を奢ってくれと言った。当時奨学金とアルバイトで学費も生活費も賄っていた僕に物乞いをする父を軽蔑しながらも、僕は父に千円程度の食事を奢った。昔の僕に一週間ほど食事を与える忘れた人間に対する対応としては、これでも随分と慈悲に満ちた行動だと思う。
その翌週、僕はささやかな金銭と共に父に一通の手紙を送った。手紙には「僕は僕、貴方は貴方の人生を送りましょう。あの頃のことは消してしまいたいんです」とだけ書いた。
それが最後だった。父とは今日に至るまで何の連絡もとっていない。
布団から抜け出し部屋のカーテンを開けると、部屋は鋭い光で満たされた。空はどんよりと曇っていて、窓ガラスの向こうの町並みは暗く、歩行者はほとんどいなかった。
僕は台所でインスタントコーヒーの粉を入れたマグカップに湯を注ぎ、六個入り百円のロールパンを皿の上にのせた。部屋の中央に置かれたローテーブルのところでそれを食べる。ベッドとローテーブルの間、一畳ほどのスペースが僕の主要な生活スペースだった。
僕は友達からのメールと昨夜のカラオケ店での出来事を思い出しながら、静まり返った部屋の中でロールパンをたいらげた。僕は何故何もかもがこんなに空虚なのか、分析することにした。
これまでの人生で僕はそれなりに友達を作ってきた。それは間違いない。けれども一緒に遊ぶことのできる友達となれば話は別だ。僕の田舎は就職口が少なく大学もあまりなかったので、地元の友達は卒業と同時に散り散りになった。だから彼らと気軽に会うことは出来ない。並の並でしかない大学の友達は、大半が休日休みのない販売系の職業に就いているので日程が調整出来ない。たまにメールや電話でしか話さない友達なんて、ネット上で会話を交わす仮想の友達と大差ないのではなかろうか。
つまり、僕には新しい世界が必要だった。
もちろん何かを始める時には行動を起こさなければならないことくらい分かっている。丁度入学式の翌日にシャープペンシルを貸した時のように。僕はどうすればいいか知っている。このことの意味を僕は少し考えてみた。僕は大人になってから現状に満足したことなんて一度もなかった。満足したことがないということは常に理想があったということだ。そして僕は理想に近づくためにいつでも行動することが出来た。ふと、どうにも滑稽に思えて、口元に笑みが浮かんだ。
僕はまたこうして空想に逃げるんだ。
白地に星マークの入ったヘッドフォンを被り、CDプレーヤーの再生ボタンを押すと、ダーティ・プリティ・シングスのジン&ミルクが始まった。僕は音楽を聴きながら頭の中で無茶苦茶に叫んでみた。言い訳を考える天才、惨めでちっぽけな人間。僕は自虐することで何もしないことの理由を作り、何もかもをやり過ごす。ボリュームをガンガン上げて、音楽がただの音になり、頭の中の叫び声と混ざり合い、とうとう何も聞こえなくなっても、僕はそこから動こうとはしなかった。