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「先生」

 夕方、町に夕飯の匂いや石鹸の匂いが漂い始める時間になって、僕は音楽教室でピアノのレッスンを受けるために家を出た。

 僕の住む懐かしい匂いのする町は、駅周辺以外にはほとんど店のない小さくて貧しい町だ。駅から市役所、図書館を繋ぐ中央通から一本道を逸れたところにある、僕の住んでいるマンションの壁は一様に灰色で、建物全体が老朽化しているような感じを与えた。僕は見る度に憂鬱になった。申し訳程度に作られた花壇には、すかすかの枝に乾燥した葉がこびりついた貧相なツツジが数本植えられているだけで、むしろない方がいいような有様だった。共有のゴミ捨て場には黄ばんだお知らせ用の紙がパリパリになったセロハンテープで辛うじて留められている。玄関脇のポストの周辺には不動産やデリバリーの広告が大量に散らばっていた。

 僕が音楽教室に着いたのは十七時五十五分だった。待合室は静かで、僕の他には誰もいない。雲を通して射し込む光が、気だるく生気のない感じを与える。マガジンラックに収められた子供向けの絵本だけが、この無機質な空間で唯一色味を感じさせるものだった。

 木製の椅子に座り、鞄から取り出した楽譜を眺めてぼんやりとしていると、待合室の奥のレッスン室のドアが開いた。そこから顔を覗かせたのはピアノの先生だった。ドアの前に立っている先生は、白いシャツとフランネルの黒いズボン、それから革靴を身に着けていた。先生がデニムとスニーカー以外のものを履いているのを見るのは初めてで、僕は少し不意をつかれて驚き、そのために彼の外見の最も大きな変化に気づくのが遅れた。先生は、黒縁の眼鏡をかけていた。

 こちらを見たまま、先生は僕の反応を待っていた。僕は少しはにかんでから笑顔を見せた。何だか素直に変化を認めるのは照れ臭かったけれど、先生は僕以上に照れているようだったので、何だか温かい気持ちになった。

 「イメチェンですか?」

 先生は笑みを浮かべ、眼鏡を悪戯っぽく人差し指でずらして見せた。

 「昨日出来たばかりなんだ」

 「いいですね。似合ってますよ」

 先生はずっと笑みを浮かべていたが、僕があまりにじっと見つめていたせいか、目を逸らして当惑したような顔をした。

 「あの、ええと、どうぞ?」

 ドアを広く開けながら、先生は言った。

 「あ、すみません。ありがとうございます」

 僕は鞄を持ち上げた。

 「先生、視力いくらです?今までコンタクトだったんですか?」

 先生は首を横に振った。

 「目は昔から悪かったんだけどね、コンタクトは怖くて出来なかったんだ。眼鏡は邪魔になりそうで倦厭していたんだけど、気分転換になるかなって、それで」

 「何かあったんですか?」

 「うん、まあ、ちょっとね」

 先生は僕がピアノの前に置かれた椅子に腰掛けるのを見届け、ドアを後ろ手に閉めた。

 「気になるなあ、その言い方。僕には言えないこと?」

 僕は聞いた。

 「この年齢になってようやく色気づいてきたっていうか……」

 「彼女さんでも出来たんですか?」

 先生は首を横に振った。

 「違う違う。そういうのじゃないよ」

 「じゃあ、純粋に心境の変化?」

 先生は頷いた。

 「俺も三十歳に近づいているし、何でもいいから変わりたいって思ったんだ」

 何かに惹きつけられるのと、跳ね除けられるのを同時に感じることはないだろうか。見たくないのに見てしまう、そんな気持ちだ。例え後悔するようなものを見ると分かっていたのだとしても、その場から離れることが出来ない。そう、先生の前向きな変化は僕にとって交通事故のようなものだった。これまで僕らの世界は同じだと思っていたけれど、それは大きな間違いだった。だから僕は目を背けることが出来ないのだろう。更に悪いことに、僕は先生と同じ世界に行こうと考え始めていた。けれども長い間培われた怠惰な細胞が、何をしたって無駄だと僕に呼びかけている。

 「あの」

 僕は思い切って切り出した。

 「どうしてですか?先生には変わらなきゃいけない理由なんて何もないと思うんですけど。僕は先生のことを尊敬しているし、僕以外にも先生のことを認めている人は沢山いるでしょ。だから理解出来ません」

 「君は誰かに認められたいと思っているんだね」

 先生の視線が食い込んできた。

 「だったら俺が言おうか。僕が君を認めている、尊敬しているって」

 あまりにストレートな言葉に、表情を変えずにいるのは難しかった。

 「誰かに聞いてもらいたいことがあるのなら、俺じゃ駄目?」

 そう言ってにっこりしたが、僕のことを試しているようにも見えた。先生はわざわざ椅子を僕の目の前に持ってきて、僕から目を逸らさずに腰を下ろした。

 「駄目なんですよ、僕は」

 僕はおずおずと答えた。

 「もっとしっかりしなきゃ、強くならないといけないのに弱音を吐いてばかりなんだ。格好悪い。適当に生きているだけで、意味のあることなんて何も出来てない。どう変わったらいいのか、どうしたらいいのか分からない」

 「君のやりたいことは何?」

 「僕はただ平和に生きていたいだけです。特別なことなんて何もいりません」

 「そう」

 「普通でいいんです」

 先生は何も言わない。

 「理想はフェードイン、フェードアウト」

 僕は更に続けた。どうして止めないんだろう?どうして笑って誤魔化さないんだ?こんな話退屈に決まっている。それならどうして僕は膝の上に置いた握り拳を固くして、床を見つめているんだろう。

 「細く短い人生でいい」

 「なるほどね」

 「つまらないでしょ、僕なんて」

 「全然」

 先生は首を横に振った。

 「少なくとも俺には十分面白いよ。……あ、面白いなんて言い方は酷いよね。でもね、君は自分のことを格好悪くて駄目な奴だと思っているみたいだけど、俺よりはずっとマシ」

 先生の声のトーンに悲しみが混じったのはその時だった。とにかく、僕にはそんな風に聞こえた。だから僕は顔を上げた。

 「車の免許を取って間もない頃にね」

 ちょっと間を置いて先生は言った。

 「俺、事故を起こしたんだ。信号無視をして突っ込んできたバイクを避けることが出来なくてね。相手は大怪我をした。それも、ベッドから動くことも出来ないくらいの怪我だった。俺はお金を払っただけで、彼に何もしてあげることは出来なかった。俺が彼のバイクを避けられていたら、俺があの時あの場所にいなければ彼はそんな目に遭わずに済んだのにね。後悔してる。それでも俺は事故以降一度も彼に会っていないし、これから会いに行くこともないんだ。君よりもずっと駄目な人間だろう?俺は」

 先生の告白に僕はどう反応すればいいのか分からなかった。どぎまぎして彼の足元に視線を落とし、それからようやく口を開いた。

 「僕には……何て言ったらいいのか分かりません」

 先生は眼鏡を鼻の上で直し、僕を通り越して窓の外を横目で見た。

 「うん、そうだと思う」

 「ごめんなさい」

 「どうして謝るの?君は何も悪いことなんかしてないじゃない、俺が勝手に話したんだから」

 「でも」

 「少し、繊細すぎるのかもしれないね」

 先生は小さく息を吐くと、妙な笑みを浮かべた。

 「君も俺も、もっと割り切って生きていくことが出来たらいいんだろうけど」

 先生は僕の方を見ていなかった。僕から目を逸らし、窓の外を見つめていた。

 「世の中色んな人がいるけれど、その中でも俺たちは世渡り下手な部類に入るんだろうね。それに、人を押し退けてまで何かを手に入れようとする気概も度胸もないし」

 「確かに……そうかもしれませんね」

 「でも、このままでいいなんて思えないでしょ?俺はそう思ってる。君はまだ若いけど、俺にはもう後がないからね」

 僕は頭を振った。何も言葉が出てこなかった。

 「どんな些細なきっかけでも、それが俺を変えることになるのならそれでいい。自己満足でも十分だよ」
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