TOPに戻る
前のページ 次のページ

「兄」

 寂しくなったり暗澹とした気分になったりすると、何故か僕は過去に戻ろうとし、結局更なる深みにはまり込んでいくという変な習癖があった。つまり、今感じている痛みをより大きな痛みで誤魔化そうとするのだ。

 少しでも楽になれることを願って誰かに電話をしたりもするのだが、真っ暗な部屋の中で待ち歌を聞いていると、言い知れない不安が忍び寄ってきて、追い詰められ、電話をかけたことを後悔してしまう。

 それなのに、友達と大学に行った日の翌日、僕は会社から帰ってくるなり兄に電話をかけていた。

 「もしもし?どうした?」

 兄はそう言って僕が話し出すのを待った。僕のことを哀れんでいるのか、それとも無関心なのか、本当のところは分からない。それでも兄は僕のことを無視したことはなかったし、少なくとも弟として認識してくれているのは間違いなかった。

 「どうしたってその、特に何かがあったわけじゃないんだけどさ。もしかしてまだ会社だったりする?」

 電話の向こうで、レコードの針が飛んだように一瞬の沈黙があった。それから兄は口を開いた。

 「いや、今日は定時あがりだったから」

 警戒心丸出しの声。僕は出来るだけ明るい声で話そうと努めた。本題を切り出すにはまだ早すぎる。少なくとも、多少の馴れ合いは必要だ。

 「ああ、それなら良かった。えっと、ほら、そっちであれ売ってないかなと思って」

 「あれ?」

 「カップラーメンの」

 「お、待て待て、分かったぞ!あれだろ、ガンプラつきのカップラーメン!あれ俺も探してるんだよ。今日何件コンビニまわったことか。何?そっちでも売ってないの?お前の住んでる場所の方が都会じゃん」

 「いや、全然ないって。昼休憩に会社でそれ系のブログとかもチェックしてみたんだけど、どこも売り切れなんだって」

 「うわ、マジか」

 「馬鹿だよねー。カップラーメン一つに六百円出すなんてさあ。あ、でもここにも兄弟揃って必死でそれ買おうとしてる奴らがいるんだけどね」

 「酷え」

 もう少しで笑い出しそうだった。余りにも馬鹿げていた。僕は兄の好きそうな話題を持ち出すことで、兄に逃げられないように必死で掴まっているのだ。

 「だからそっちにあったら送ってもらおうと思ったんだよ。でも、ないんじゃどうしようもないな。ドム欲しかったのに。あ、そういえばジョジョくじの時もなかったよね。絶対転売してる奴がいるよなあ。ネットオークションでいい値で売られてそう」

 「あー、それあり得そうだなあ」

 「まあ、その、見つけたら買っておいてよ。ドム三体とガンダム。お金はちゃんと払うからさ」

 「おう、分かった。お前もそっちで見つけたらガンダム買っておいてよ」

 「うん」

 僕たちはその会話の後、しばらく黙り込んだ。僕はどう本題を切り出す方法を思いつかなかったし、兄は兄で僕が何を話し出してもいいように準備を整えていた。

 「ねえ、今週末にそっちに遊びに行ってもいいかな」

 結局、僕は言った。

 「気分転換がしたいんだ。ちょっと落ち込んでて。墓参りも何年もしてないし、そのついでじゃないけど」

 十秒ほどの間があり、その後で兄は不意に訊ねた。

 「母さんと何かあった?」

 「いや、そういうわけじゃないよ」

 「そうか」

 僕たちは再び黙り込んだ。……母さん。

 「兄さんはさ、その、母さんと連絡取り合ったりしてるの?」

 「いや、全然。もう一年くらいは話してないかな」

 兄さんがそう言った時、吐き気が込み上げてきて、頭がくらくらするのを感じた。やっぱり母さんは僕たちのことなんて気にもかけていない。特にしっかりと自立していて、つけ入る隙のない兄のことは、意図的に忘れ去っていると言ってもいいくらいだ。母さんが必要としているのは、無条件で自分を求めてくれる、手の掛からない、いざとなればどうとでも出来る人間だけだ。

 「そうなんだ。僕も最近はほとんど連絡を取っていないよ。まあ、向こうから電話がある時って、大抵何か困ったことが起きた時なんだけどね。例えば、おじさんと喧嘩した時とか」

 僕は言った。

 電話を通してさえ、僕は兄が陰鬱な表情を浮かべているのが分かった。

 「なあ」

 「ん?」

 「母さんとおじさんの関係って何なの?」

 「いや、僕もはっきりとしたことは分からないんだけど……たぶん母さん、再婚したんじゃないかな。苗字変わってるし。自分の子供にそういう大切なことを何も話してくれないのはどうかと思うけどね」

 「ま、いいんじゃない?関係ないし。俺たちは俺たちで生きていけば」

 「うん、そうだね」

 「あ、兄ちゃんはお前のこと誇りに思ってるぞ」

 「は?何だよ急に」

 「いや、何となく。だってお前、頑張ってるじゃん。自分の力で大学行って、就職して、料理だって上手いし」

 「料理は兄さんが下手過ぎるから、仕方なく覚えたんだよ。蛍光色のチャーハンとか意味分かんないし。あれ、覚えてる?」

 「ああ、でも俺、塩コショウしか使ってなかったんだけどなあ。何であんなことになったのか」

 「兄さん、ちゃんと自炊してるの?」

 「んー、ご飯炊くのがめんどいから最近はサボってる」

 「土日に一気に炊いてラップして冷凍しとけばいいじゃん。それで、食べる時にレンジで暖めたら」

 「あれ?ご飯って冷凍していいもんなの?」

 「常識だよ。もう、兄さんはその辺抜けてるんだよな。おかずだって大量に作って冷凍しておけば、平日はほとんど料理する必要なんてないしね」

 「主婦みたいだな、お前」

 兄は電話に向かって溜息を吐いた。

 「ねえ、そっちに行っても親戚に出くわしたりしないよね?」

 「大丈夫だろ、たぶん。それに、別に俺たちが悪いことしたわけじゃないんだから、堂々としてればいいんだよ」

 「それは、分かってるけど」

 僕は小声で言った。

 「まあ、うん、いいや。とにかく週末そっち行くからね。よろしく」

 「おう、了解」

 兄は電話を切りかかった。

 「兄さん?」

 僕は言って兄を止めた。

 「何?」

 「あのさ、さっき言いそびれたけど、僕は兄さんのこと尊敬してるからね。それだけ!」

 僅かな沈黙の後、電話の向こうで兄の笑い声が弾けた。
前のページ 次のページ
TOPに戻る