「思惟」
それから三十分としないうちに、僕たちは大学から少し離れたところにある河原のベンチに腰を下ろしていた。手には缶コーヒーの入ったビニール袋を提げている。そして計画の成功を祝して缶コーヒーで乾杯をした。特盛カレー、教授への悪戯、構内での追いかけっこ……これは予想外の形で行うことになったが、とにかく僕が大学生の時にやり残したことは一通り実行することが出来た。でも、僕はまだ必要とするものを手に入れていない。急に、僕はこのまま彼と別れてしまいたくなった。でも、ここで彼と別れてしまえば、僕はきっと後悔する。
余計なことを考えて躊躇しないように、頭の中を空にして、独り言のように言った。
「ねえ……また今日みたいに一緒に遊べるかな?」
しばらく沈黙が続いた。僕はどきどきしながら返事を待った。彼が口を開くのが怖かった。
ようやく返事が返ってきた。
「まあ、休みが合えばな」
その煮え切らない返事に、僕は落胆した。
三十秒が経過した。僕はすっかり落ち込んで口を閉ざした。無理に話題を提供しようとはせず、むしろ、この気まずい雰囲気を持続させようと努めた。心を閉ざし、より一層自分を惨めな人間だと思い込もうとした。そうすることに僕は慰めを見出したのだ。
彼は自分が何をしたのか理解していなかった。
いつだってそうだ。誰も僕のことなんて分かってくれない。僕の望みはそんなに大それたものじゃない。僕はただ、あの頃の自分に戻ってみんなに愛されたいだけなのに。それなのに、いつも独りぼっちだ。みんな、自分から僕には歩み寄ってきてくれない。そして、僕が自分から歩み寄ろうとすれば、一定の距離以上にはけして近づかせてくれないのだ。
泣きたくなったけれど、唾を飲み込んで我慢した。
僕は、彼の方から話しかけてくれるのを待った。僕が落ち込んでいることに気づいて、慰めの言葉を掛けてくれたらいいのに。けれども、そんな願いが叶うはずもない。彼は人の気持ちに鈍感な人間だ。
雨がぽつぽつと降り始めた。特有の生臭い匂いが空気中に充満し、空がどんよりと暗くなった。陽光も青空も姿を消した。
何だか虚しくなった。
つい数時間前、僕は何でも出来る気になって、新しい一歩を踏み出したのだった。希望を抱いて。それが彼のせいで台無しだ。
「これからどうする?」
彼は言った。
「どうするって……」
「雨降ってきたし、どっか屋根のあるとこ行かない?」
「別に。どうでもいいけど」
「じゃあ、行こうぜ。近くのゲーセンまだ潰れてないといいな」
僕は彼に従った。拒否するほどの勇気はなかったから。そんなことをして彼に不快な思いをさせたくない。それは僕の優しさでもあり、弱さでもあった。
誰と付き合っても、僕の人間関係は、こんな風になるのだろうか?
歩きながら、逃げ出す口実を探した。黒で統一された自分の部屋が恋しい。あの部屋の片隅で、一人きりで悲しみを噛み締めていたい。あそこにいれば、少なくとも誰かに傷つけられることはない。
ゲームセンターにいる間、僕はずっと心の中で、「逃げちゃ駄目だ」と唱え続けた。僕たちは心が通わない、ただそれだけのことだ。彼には彼の人生がある。一緒に旅行に行く友達もいる。幸せにやっているのだ。
午前と比べて、午後はやけに時間が経つのが遅く感じられた。自分から彼を誘ったのに、彼と別れる時間が来るのが待ち遠しかった。しかし、いざその時が来てみると、彼と別れて独りきりになることが嫌で堪らなかった。
こんなはずじゃなかった。
僕は誰かと一緒にいても、すぐにどうしようもなく一人になりたくなる。そして一人になると、その人を失うのではないかと怖くなるのだ。
この世で僕は独りぼっちになる。黒くてどろどろとした思惟に浸食され、僕はいつか気が触れ、ある日死んでしまうのではないだろうか。この大きなぬかるみから抜け出したい一心で、いつか死んでしまうのではないだろうか。
僕は、自分からさよならを言うことは出来なかった。もちろん、彼はそんな繊細さを持ち合わせていなかった。
「じゃあな」
「うん、じゃあ」
僕は遠ざかっていく彼の背を、その姿が見えなくなるまで見送った。
あの頃、僕は彼のことが好きだった。僕よりももっと弱い彼のことが。過去の彼のことが。
* * *
その夜は、なかなか寝付けなかった。
掛け布団がずり落ちてばかりいた。どの方向を向いても違和感があり、何度も寝返りを打った。起きているのか寝ているのか判断がつかなかった。
明日からまた代わり映えのしない憂鬱な毎日が始まるだなんて、考えるだけで苦痛だった。ほんの数日のうちに何年も過ぎてしまったようで、疲れ過ぎていて前には進めそうもなかった。
何か別のきっかけを探す必要があった。お洒落なバーに出かけるとか、新しい習い事を始めるとか、ピアノの先生のように形から入ってみるとか。けれども何をしたって、それは僕の半分だけですることになりそうだった。
僕がしているのは選択ではなく逃避であり、噴きこぼれそうになっている鍋に無理やり蓋をすることだった。僕の半分は間抜けな芝居を続け、もう半分は先の見えない闇の中で立ちつくしていた。
僕は光を、一筋の光明を求めていた。
僕は僕以外の誰かの中に存在しているのかどうかが知りたかった。誰一人として僕のことを心に留めてくれていないのなら、死んだ方がいいと思った。
望んで生まれてきた人なんて一人もいない。何の説明もなく、気がついた時には舞台の上に放り出されていて、ごく一部の主役に選ばれた人たち以外はエキストラを演じる。
あらゆる人の日常には、何か意味があるのだろうか。どうして僕たちはいつも同じ動作を繰り返すのだろう。習慣だから?それとも他のことなんて思いつかないから?今の自分を疑うことすらないから?そうでなければ不安だから?誰だって、同じ道を歩き続けた方が楽に決まっている。
そうだとすれば、僕たちの人生には一体どんな意味があるのだろう。僕たちの人生は自分の影を追いかけるようなものなのだろうか。それともそんな行為自体に、何か意味が潜んでいるのだろうか。
僕たちはこの世に生まれてくるかどうかを選ぶことは出来ないけれど、自分から立ち去ることは出来る。舞台から退場することは出来る。
そもそも、この世界に僕がしっくり馴染めるところなんてあるのだろうか。いつも何かがしっくりこない。共通の価値観を持ち、互いに多くを共有出来る人のいる場所を望むことが、それほど無茶な要求だろうか。
そんなことを考えているうちに、僕はとうとう起き上がってしまった。まだ外は暗くて、携帯電話の時計は午前二時を表示していたけれど、明かりの点いている家も何軒か見えた。夜の間、その家の住人も僕と同じように苦しんでいるに違いなかった。
静かな家の中に一人でいると、今までにあったこと全てが真実味をなくしていくような気がした。耳元では、彼がくすくすと笑っていた。