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「大学」

 バスを降りると、僕たちは一緒に歩き出した。僕は左、彼は右だ。彼は人と並んで歩くと、少しずつ相手を壁際に押しやる癖がある。僕は大学の敷地を囲うコンクリートの壁に身を削られないよう、注意しながら歩いた。誰かとすれ違う時は、自分から率先して彼の後ろに回った。

 やがて、僕たちの前に見慣れた建物が現れた。数年ぶりに目にしてみると、何だか小さく感じられた。広場と講堂が接したところに、僕たちがよく通っていた食堂があった。

 僕は食事にしようと彼を誘った。

 僕たちは学生に混じってレジに並び、食事をプラスチックのトレイにのせて、出入り口から最も遠い西側の隅の席に陣取った。正午前だったので、学生はまだ講義中なのだろう、食堂にいる人影はまばらだった。

 彼はトレイをテーブルにのせると、斜め掛けの鞄をその横に置いた。でも、テーブルが衛生的とは言い難い状況にあることに気がついたのか、慌てて鞄を隣の椅子に移動させた。どこか抜けている奴なのだ。

 僕は鞄の中からウエットティッシュを取り出し、それで手を丁寧に拭きながら、ぼんやりと窓の外の様子を眺めた。これは昔からの僕の癖だった。ガラス一枚隔てた世界は、僕とは無縁の、しかし近しい親しみのある世界のように見える。

 彼の注文したミートソーススパゲッティは、茹でてから時間が経ち過ぎて伸びきっていた。彼は眉を顰めて自分の皿に目を落とし、フォークでパスタとソースをかき混ぜている。

 僕たちはゆっくりと食事をした。時間を掛けて、ゆっくりと。お互いに、一回の食事の分量としては多過ぎる量を注文してしまっていたからだ。

 何年もの間想い焦がれていた特盛カレーは、口に運ぶ毎に味をなくし、最終的には単なる白と茶色の塊と化した。何杯もの水でそれを飲み下し、ようやく食べ終わった頃には、僕は二度とカレーを口にすることはないだろうと思った。

 彼は五分くらい放心したような表情で天井を仰いだ後、僕の顔まで視線を下ろした。その瞬間、僕たちの視線がぶつかった。彼の瞳の中に、僕の輪郭が映っているのが見えた。僕は視線を逸らした。

 「それで、仕事の話の続きなんだけどさ」

 彼は僕を見つめたまま、唐突に話し出した。

 「パートのおばちゃんに、あんたは正社員なんだから私たちの代わりに主任に文句言いなさい、なんて言われちゃってさあ。ったく何で俺なんだよ。だって、他にも正社員いるんだぜ」

 僕は興味津々で聞いているふりをした。でも、本当は他人の仕事の話ほど退屈させられる話はない。一体これまで何人の人に、その手の話を聞かされてきたことか。

 もし彼に僕の本心が聞こえたら、彼は顔を真っ赤にしてこの場から立ち去るに違いない。

 彼は身振り手振りを加えて、いかに自分が職場で不当な扱いを受けているかを語った。いくらそれを僕に訴えたところで、どうなるわけでもないのに。

 こんな話はつまらない。僕は何か別の話題を見つけたくて話を変えた。

 「学祭の日のこと、覚えてる?」

 僕は訊いた。

 「三回生の時のことなんだけどさ」

 彼は頷いた。僕たちが大学三回生の時、彼の所属するサークルは学園祭でコロッケの屋台を出展することになった。順調に出店準備が進み、いざ当日を迎えてみると、用意していた食材が全て痛んでいた。食材の管理係だった彼は、サークルのメンバーから散々責められたが、どうすることも出来ない。彼は泣き出しそうな声で、別のサークルに所属していた僕に電話を掛けた。話を聞いた僕は、懇意にしている八百屋に頼んで食材を格安で提供してもらった。これも何かの縁だからと、僕はその後、彼のいるサークルに入ることになった。

 「あの時は助かったよ」

 彼は言った。

 「お前がいてくれなかったら、俺が全額材料費を弁償させられていただろうな」

 「要領悪いもんね」

 僕は言った。

 彼は少しだけ笑った。彼のコメディ映画の主人公のような要領の悪さは、いつも僕たちの冗談の種だった。しかし彼が再び口を開いた時、その声は寂しげで喪失感と後悔に満ちていた。

 「あの頃に戻りたいなあ」

 彼は言った。

 そう。確かに僕たちは昔のことを思い出していた。しかし、いくら昔みたいに振舞っても、あの頃の僕たちに戻れるはずはなかった。この数年間、異なる環境で生きてきたせいで、僕たちの接点はほとんどなくなっていた。彼は前より愚痴っぽくなっていたし、それに、もう僕のことを必要とはしていなかった。

 僕はあの頃を思い出して、少しだけ優しい目で彼を見つめた。

 「戻ろうよ、今日は」

 僕は言った。

 「戻ろうよ。それで、やり残したことをやろうよ。僕はそのために今日ここに来たんだ。お前ともう一度大学生をやりたくて。お世話になった教授にもお返ししないといけないしさ」

 「お返しって……何するんだよ?」

 「子供の悪戯かな。とにかく、ここを出よう。そろそろ食堂が混んでくる時間だから」

 彼は口元を綻ばせ、何やらごにょごにょと呟いた。顔に少しだけ喜びが表れていた。

 十二時を告げる鐘が鳴った。僕たちは食堂を離れて教授たちの部屋がある建物に向かった。
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