「墓参り」
田舎に向かって僕を運ぶバスの中で、僕はどんな気持ちでいたのだろうか。恐れ?それとも怒り?怒りがあったのは確かだけれども、どちらかというと不安の方が大きかったと思う。窓の外には変化のない景色が連なっていて、バスと平行して走っていた川との分岐点が迫っていた。不安の方が大きかったのは、自信がなかったからだ。今の僕に過去と向き合って平静でいることが出来るだろうか。耐えることが出来るだろうか。
その停留所で降りたのは僕だけだった。手押し車を押したおばあさんが、ふらついた足取りで、路地裏から現れる。
この辺りはこの町のメイン・ストリートだったが、人通りはほとんどなくて、とうの昔に潰れてしまった商店の建ち並ぶ、閑散とした地域になっていた。
「変わってないだろ」
後ろで声がした。
僕は後ろを振り返った。兄がそこに立っていた。手には仏花の花束を持っていた。
「ほんっとド田舎だよなあ。この間なんて、俺たちの通っていた中学の近くにスタバが出来たからってニュースになったんだぞ。そっちじゃあり得ないだろ」
僕は兄に笑顔を向けた。久しぶりの再会が単純に嬉しかった。
「まあね。でも、連日物騒なニュースばかり流れているよりよっぽどいいじゃない」
「ああ、そういえばお前の住んでる辺りって強盗やら殺人やらの事件が多いもんな。お前も気をつけないと駄目だぞ」
「分かってるよ」
僕は言った。それから足を一歩前に踏み出した。
僕たちは父方の先祖が供養されている寺に向かって歩いた。停留所から歩いて十分ほどの場所にある、豪奢な装飾のある大きな寺。その寺は確かに立派だが、僕は母方の先祖が供養されている、古くて小ぢんまりとした寺の方が好きだった。日本昔話に出てきそうなその外観も、天井に飾られている地獄絵図も。
「墓参りなんて何年ぶりだろうな」
兄は言った。
「法事関係は全部スルーしてたしなあ」
「でも、兄さんの家からなら寺は近いじゃない。行こうと思えばいつだって行けたでしょ」
僕は言った。兄は決まりが悪そうに顔を歪めた。
「特別な理由でもなきゃ、普通、墓参りなんて行かないだろ」
「信仰心がないね」
「お前に言われたくないよ」
僕たちはその時墓地の前に着き、まるで中に入るのを躊躇うかのようにそこで足を止めた。靴が砂利を踏んでざくりと音を立てた。
「最近どう?」
僕は兄に訊いた。僕が必要としているのは、不幸せな人間だ。僕と同じように居場所のない人。一緒にいても僕を惨めにさせない、孤独で優しい人。僕が必要としているのはそんな人だ。同じような環境にいた兄こそ、きっとそんな人であるはずだ。
「どうって、特に変わったことはないなあ」
兄は言った。
「平日は仕事して、家に帰っても寝るだけだし」
「まあ、そんなものだよね」
僕は微笑んで言った。
兄は溜息を吐いた。
「二、三日でいいから学生時代に戻りたい」
「戻ったからって、今よりマシとは限らないけどね」
僕はわざとそっけなく言って、墓地の敷地内に足を踏み入れた。
「流石にちょっと気味が悪いな」
兄は言った。確かにそうかもしれない。雲に覆われた空は暗く、墓地の中には僕たち以外の人影はない。黙っていると、静けさのあまり耳鳴りさえ聞こえた。
僕たちは狭い通路を通り、先祖の墓の前まで移動した。長方形に加工された御影石には、僕たちの苗字が刻み込んである。
僕は墓の前に立ち、じっと墓石を見つめたが、先祖のことを考えていたわけではなかった。ましてや思い出に浸っていたわけでも、祖父を失ったことを悲しんでいたわけでもない。僕は兄のことを考えていた。兄弟として培ってきた絆の強さを確認する方法を捜していたのだ。この日、僕が地元に帰ってきたのはその為だった。
僕は墓石からそっと兄に目を移した。兄は僕の斜め前にしゃがみ込み、花立てに持参した仏花を飾っていた。口を閉ざした兄は、まるで見知らぬ人のようだった。表情を消してそこに座り、何を考えているのだろう、と少しの間僕は思った。祖父との思い出だろうか。それとも両親のことか、あるいは運命の残酷さとそれがもたらした影響のことか。それとも、ようやく掴んだ自分自身の人生のことだろうか。僕はけしてその答えを知ることはないだろう。
「何でこんなことになっちゃったんだろうね?」
僕は訊いた。
兄は眠りから覚めたようにゆっくりと答えた。
「何が?」
「僕たちだよ」
兄がそのことを考えている間、僕は静寂が周りを包むに任せた。重苦しい沈黙は数分間続いた。
「そうだな」
兄の声は単調に響いた。
「少なくとも、俺やお前のせいじゃないことは確かだ」
僕が黙っていると、兄は更に続けた。
「父さんや母さんに対しては色々思うところはあるけど、今更どうこう言ったってしょうがないだろう。大切なことは、俺とお前がこれからどうなっていくかってことだ。親のことは反面教師にして生きていくしかないな」
兄は僕をちらと見た。
「お前、大丈夫か?」
「さあ、どうだろうね」
「そういう言い方はやめろよ。お前の悪いところだぞ。何かあったのならちゃんと言えよ。ただでさえお前は身体が弱いんだから、心配になるだろ」
「身体は何ともないよ。身体はね」
「それならいいんだ。身体が一番大切だからな。病気になったり怪我をしたら、何も出来ない」
「うん、そうだね」
「そろそろ行くか?」
僕は頷いた。けれども心の中では首を横に振っていた。そうじゃない、違うよ兄さん。身体は問題ないけれど、僕の心が問題なんだ。具体的な説明のつかない病が蜃気楼や幻覚のように僕を蝕み、じわじわと心を破壊している。
兄さんだって本当は気づいているはずだ。僕が助けを求めていることを。それなのに、兄さんは僕の病を見て見ぬふりをするの?
お願いだから、誰か僕の声を聞いて。