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「川辺」

 僕は緑の生い茂る川辺を何の目的もなく歩くのが好きだ。生命力に満ちた草花やどこまでも澄んだ川の流れを眺めていると、どこか遠くの町に旅立ちたくなる。レジャーシートの上で水筒に入れた温かい番茶を分け合っている母子の姿が見えるような気がする。のんびりとキャッチボールを楽しむ父子の姿がありありと目に浮かぶ。

 でも、そんな空想は長続きしない。

 この町のことなら何でも知っている。だから、幸福な空想はほんの一瞬のことにすぎない。

 墓参りの後、僕は兄と別行動を取り、寺の近くの川沿いを散歩していた。空には切れ切れの雲が漂っていて、僕の頭は別のところを彷徨っていた。

 自分自身の可能性を信じ、全てが確かだった頃の僕を思い出すことが出来ない。いつどうやって、あの純粋なバイタリティが消え去ってしまったのだろう?順調に成長していたはずの自我が、どうして変質してしまったのだろう?

 五歳?それとも十四歳?

 いつにせよ、その時まで僕は無限の可能性を持っていたはずだ。多くの夢に思いを馳せていたはずだ。どこまでも高く飛べると信じていたはずだ。

 けれども、僕は一度たりとも飛べなかった。

 午後三時の澄んだ光の中、僕は橋の上で立ち止まり、欄干を握って前方を見つめた。高さ十メートルほどの橋の上には、僕の他には誰もいない。時折、激しい風の音に混じって、船の汽笛が聞こえてくる。僕に警告を出しているのか、それとも僕を誘っているのか。僕の足元では、川が緩やかに流れ続けている。

 それにしても日に何度、死の幻想が僕の頭に過ぎるのだろう。僕は僕の葬式を何度も繰り返し計画した。孤独な青年の死は、社会に一石を投じるかもしれない。少なくとも、僕が生きていた時には見つけられなかった存在価値を、誰かが付加してくれることだろう。生きていた時、僕は孤独と苦悩を抱えて川を見下ろしているだけだったのに。

 しかしもちろん、僕が生きていくだろうことも分かっていた。例え川に飛び込んでも、すぐに酸素を求めて水面に顔を出すはめになるだろう。苦しむかどうかは別として、僕はきっとこれからも、自殺の幻想にとりつかれて生きていくのだ。

 死について考える時、僕は宇宙を連想する。僕なんて存在は、宇宙から見ればまるでちっぽけだ。取るに足りない。そう思うと、一気に虚無感が押し寄せてくる。

 もしあらゆることが予め決められているのだとしたら、もし僕は僕にしかなれなくて、他のものにはなれないのなら、それから同じことが金持ちにもホームレスにも言えるのなら、僕たちの存在にはどんな意味があるのだろうか。僕たちのアイデンティティは空間に浮かぶ無数の紙切れのようなもので、それは目に見えない壁で仕切られ、仕切りごとに記号が割り振られているのだろうか。

 運命があるのだとすれば、きっとそれは空の上にいる神様と呼ばれる存在が決めているのだろう。今日はホームレスが三割、一般人が五割、金持ちが二割というように。

 君は僕が嫌いなの?と彼は僕に訊ねた。その質問はアイデンティティの彷徨う空間を漂い、更なる質問を呼び寄せた。その中で最も明瞭だったのは、どうして生きているの?という問いだった。

 僕は僕が嫌いなの?どうして生きているの?人は生まれたその瞬間から、一生をかけてその質問の答えを探すことになるのかもしれない。

 あれこれ考え始めると、これからどうしたらいいのかが分からなくなってきた。延々と自問自答を繰り返すうちに、僕が感じるのはもはや孤独でも悲しみでもなくて、道を見失ってしまったような、途方もない困惑だけになってしまった。

 僕は考えた。僕って誰?何のために生きているの?

 答えは全然出てこなかった。

 僕の思惟はどこからやってきたのだろう。僕の魂はどうやって生まれたのだろう。僕の生命と共に作られたのか、それとも、神秘的な事象の産物なのか。僕の魂はいつの間に自分の居場所がない、孤独で投げやりな人生を送ることに決めたのだろうか。

 僕は身体が空洞になってしまったような気分で、欄干を握ったまま、そこにがくんと膝を落とした。アスファルトは湿っていて、僅かな裂け目から雑草が顔を覗かせていた。

 虚ろな心を抱えてそこに座り込んでいるうちに、僕は突然理解した。僕は生きている間、財産も築かないし、家族さえも作らないだろうと。僕の前にある道は、疑問だらけの、永遠に孤独な道であることを。

 視界がぼやけて、身体の中心が圧迫されているような気がした。単調で堅実な日々は、僕のものではなくなっていた。理性の鎖は壊れ始めていた。良識など、弱々しくてつまらない、方向性のない感情でしかない。

 無害な行動の報酬は、僕を苦しみから救い出してはくれなかった。そんなものは、まったく役に立たなかった。

 僕の中で臆病な優しさがすっかり消え失せ、その代わりに、ふつふつと怒りが込み上げてきた。誰でもいいから殴りつけ、傷つけてやりたいとさえ思った。

 とりわけ、血の繋がりのある人間に対する怒りは激しかった。どんなに過去を避けようとしても、過去は僕を離してくれない。何度逃げても、その度に回り込んでくる。

 家族の愛情を思う度、家族の話が出る度、殺してやりたいと思った。彼らに対して、許しの心など持てなかった。彼らが僕を傷つけたように、僕も彼らを傷つけたっていいじゃないか。やり返すことの何が悪いんだ?どうして僕だけがいつまでも我慢し続けなければならないんだ?

 立ち上がると眩暈がして、僕の目には、どの建物も車も、まるで分身でもしているみたいに二重になって見えた。歩き出すと、足元がぐらついた。

 それでも、僕は強いて早足で歩いた。時々、他の通行人に進路を妨害されて、苛々と足踏みしたけれど、立ち止まりはしなかった。

 目的地に着いた時には、すっかり息が上がっていた。胸の動悸が激しかった。心臓が壊れてしまったのではないかと思うほど。

 もう、どうなっても構わなかった。どうせ僕は救われない。誰も僕を見てはくれない。

 ――もしあなたが他者の過ちを赦すのなら、天国の父もあなたのことを赦すだろう。しかし、人の罪を赦さなければ、天の父もあなたの罪をお赦しにはならない――。

 死の先に天国があるのだとしても、やっぱりそこに僕の居場所なんてないのだ。
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