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「父」

 躊躇いはなかった。僕の目が表札を映し、僕の手が玄関扉に触れた。鍵は掛かっていない。兄も言っていたように、相変わらずこの町は平和なのだろう。僕は深く息を吸うと、扉を開けて家の中に入った。

 締め切った室内特有の澱んだ空気。旧家によくある古い家具、立てつけの悪い扉、急な階段。廊下の隅で風に転がる埃の塊、ひびの入った土壁、黒電話、天井には蜘蛛の巣。そしてバスルームへと続く長い廊下。

 以前は家族団欒の場所として使われていた八畳の間の中央に、父がいた。

 顔自体は変わっていなかったけれど、髪は亡くなった祖父と同じように真っ白になっていて、筋肉は衰え、皮がたるんでいた。

 父はぽかんとした表情で、僕を見上げて呟いた。

 「お前……」

 「久しぶり」

 僕はそう言って、畳の上に座り込んだ。

 僕は僕の近況について何も教えたくなかったから、そういうことには触れないで、話はもっぱら父に任せた。父がしたいのは自分の話だけのような感じがしたからだ。余りにも長い時間独りきりでいたために、父は話し相手がいることが信じられないようだった。

 僕は過去の僕の目を通して父を見ようとした。どうして父は僕に暴力を振るい、僕の奨学金を搾取し、僕に食事を与えなかったのか。そして、どうして僕が縁を切ると言った時、あっさりとそれを受け入れたのか。

 「まさか、お前が訪ねてくるなんてな」

 そう言って父は、長い独白を始めた。

 「あれから俺は大変だったんだぞ。お前の母親の一族からどれだけ嫌がらせを受けたことか。あいつは他所に男を作って出て行った、汚い女だっていうのにな。迷惑を掛けられたのは俺の方だ。金も残さず勝手に出て行きやがって。そうだ、お前は知らないかもしれないが、あの女の母親から俺宛に毎月手紙が届くんだぞ。アンタのせいでうちの娘は不幸になったってな。お前、あの女やババアと繋がってんだろ。いや、隠しても俺には分かる。俺は全部知っているんだ。何もかもな。今日ここにきたのも、どうせあいつらの差し金なんだろう。嫌味でもいいに来たのか?それとも何か引き取りに来たのか?言っておくが、お前たちに渡すものなんて何もないぞ。恩を仇で返すような奴にやるものなんてないからな。……いや、そうとも限らんか。悪いのはお前の母親とその一族だけで、お前もいわば俺と同じ被害者だったな。そうだ、お前、この家に戻ってくればいい。お前の給料でも十分生きていけるだろう。それにお前が帰ってくれば、兄貴だってこの家に帰ってくるだろう。あいつは公務員だ。金だって持っている。昔みたいに三人で暮らせばいい。なあ、お前、貯金はあるか?正社員なんだからボーナスもそれなりにもらっているんだろう?しばらくはその金で食っていって、こっちで仕事を探せばいい。俺は別に怒っちゃいないしな。何と言っても、俺はお前の父親だ。息子が父親の面倒を見るんだ。世間体もいいじゃないか」

 時間は過ぎていったが、僕は父の言葉をほとんど受け止めることが出来なかった。兄と合流することになっている時間まで、まだ一時間以上あった。僕はどうやって話を切り出せばいいのか分からなかった。

 幸いにも、しばらくすると僕の沈黙に父が気づき、はっとしたように口を閉ざしたので、その隙に訊ねた。

 「父さんは、今、幸せ?」

 「そう見えるか?惨めなもんだよ……この歳で日々食っていく心配をしなけりゃならないなんてな」

 「助けてくれる人はいないの?」

 「いるものか。お前の母親と別れてから、誰も俺を訪ねて来ない」

 父のその答えは、僕を満足させるはずだった。金もなく、家族も友達もいない孤独な老人。僕を散々な目に合わせたのだから、当然の報いだ。ざまあみろ。ほんの数十分前までの僕なら、間違いなくそう思っていたはずだ。そして、昔は言えなかったありとあらゆる言葉で父を攻撃しただろう。けれども今、孤独の中で憎悪に囚われ、自分が傷つけた人間から同情を引こうと必死になっている父を見ていると、怒りを通り越して哀れみさえ覚えた。

 父は僕が次の言葉を口にするのを待つ間、落ち着きなく身体を前後に揺らしていた。そんな父を見ているうちに不快感がつのり、我慢出来なくなってきた。とにかくこれ以上ここにはいたくなかった。すぐにでも帰りたかった。一時の感情に流され、ここに来たのは間違いだった。

 「お前は俺の側にいてくれるよな?まさか実の父親を捨てたりしないよな?」

 僕の手は膝の上で抑えようもなく震えていた。僕は立ち上がった。

 「いいえ、僕はもう二度とあなたの前には現れません」

 僕はそう言いながら、自分自身の声の冷たさに驚いていた。

 父は絶望の混じった瞳で、呆然と僕のことを見上げた。

 「何だって?冗談だろう?」

 父の声は不安に駆られたように細くなった。

 「それともこれが俺に対する嫌がらせってわけか」

 「全部間違いだったんです。僕は……」

 父は僕を引止めようと立ち上がった。

 「おいおい、間違いって何だ。子供が親に会いに来て、それが間違いだなんてことはないだろう。それとも長い間連絡をよこさなかったことに罪悪感でも覚えたか?それなら気にすることなんてないんだぞ」

 「僕を傷つけたことに対する復讐」

 父はうんざりしたように鼻を鳴らした。

 「やっぱり嫌がらせをしにきたのか」

 「嫌がらせなんかじゃありません」

 「じゃあ何だっていうんだ。俺がお前に何をしたっていうんだ?」

 「貴方は自分にとって都合の悪いことはなかったことにしてしまうんですね。僕は貴方を責めるつもりでここに来ました。場合によっては殴ってやろうとまで思っていたんです」

 「殴る?だったら殴れよ、ほら!」

 「殴りませんよ。僕が貴方に対して何もしないことが最大の復讐になるっていうことが分かったんですから。僕は父親という存在に幻想を抱いていたんです。今の今まで」

 「恩知らずが!誰のお陰で大きくなれたと思ってるんだ!」

 「誰のお陰?僕を虐待した貴方に感謝しろとでも?理不尽な理由で僕を何度も殴りつけたことを、僕に食事を与えなかったことを、僕のお金を使い込んだことを忘れたんですか?」

 「あれは……」

 父は言い訳しようとして何も思いつかなかったらしく、憮然とした表情で黙り込んだ。

 僕はこれ以上父の声を聞かないですむように両手で耳を塞ぎ、家の中から逃げるように飛び出した。

 僕が望んでいたのは、こんな結果じゃなかったのに。
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