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「約束」

 父の虐待、母の失踪、周囲は誰も助けてくれない。兄が自分の心を保つので精一杯になっている様は傍目にも分かったし、そもそも僕と兄は母親が違うので、本当の意味では同じ立場にいるとは言えなかった。当然、父方の親族は母の血を半分受け継いだ僕のことを憎んだし、母方の親族は父の血を半分受け継いだ僕のことを恨んだ。

 それでも僕の家族の話なんて、それほど他人に興味を持ってもらえるものとも思えないし、実際、史上最悪と言われた虐待を生き抜いたデイヴ・ペルザーの小説の一文にもかなわないだろう。

 高校三年生の時、僕は悩み相談サイトのチャットルームで、同じような状況にある人たちと、いかに自分の今いる環境が酷いか深夜まで競い合ったものだ。

 どれだけ父に惨い暴力を振るわれたか、どれだけ母がヒステリーか、または自分勝手か。どれだけ長い期間、家族の中の誰かが失踪しているか。

 悲惨な状況にいる人たちと話せば話すほど、僕の問題なんてちっぽけで、相談している自分が恥ずかしく思えた。それがどうした?という感じだった。

 僕たちの共通点は、環境に恵まれていないということ以外に、例え次の瞬間に家族の問題が綺麗さっぱり片付いても、それで何もかもが満足のいく結果にはならないだろうという点にもあった。

 僕たちは一様に、誰もこんな自分など愛してくれないと思い込んでいた。

 望まぬ自分になった理由を訊ねられたら、誰もが家族の話を持ち出し、様々な問題の組み合わせを挙げるだろう。ネグレスト、暴力、離婚、犯罪、何らかの中毒なんかが組み合わさった状況。

 はたして、自分の家族が正常に機能していると思っている人間なんて、この世にどれほどいるのだろうか?

 ことある毎に、僕は今日こそ昔のように明るく振舞おうと決心する。自分の感情に正直で、微笑を絶やさず、コンビニの店員にありがとうと言えるような人間になろう!

 ただひたすらに能天気に、無邪気に笑っていればいい。傷つく前の僕に戻れば、きっと皆喜んでくれる。でもそれは、本物の僕なのだろうか。人に愛されたいために作り上げた偽者なのではないだろうか。

 いつからか僕は、偽善だとか死だとか、そういったネガティブなイメージばかりを追いかける様になっていた。最初は本気でそんなもののことを考えていたわけではなかったと思う。けれども、しばらくすると、そんなネガティブな自分があたかも本当の自分であるかのようになってしまった。

 そして元の手のかからない良い子に戻ろうとすると、酷く疲れるようになった。周囲の人間が、こうあるべき「僕」を期待している、そんなプレッシャーに押し潰されてしまいそうだった。

 僕の心の問題となると、兄は傍観者の立場に立つ。兄弟としての愛情はあっても、弟の同情を引こうとする見え透いた行動にはほとほと嫌気がさしているらしい。

 父には助けを求めても無駄だった。長い空白期間が、僕たちの家族としての繋がりを完全に断ち切っていた。あの人は自分のことしか興味がない。

 友達にもそれぞれの生活がある。それに、所詮は他人だ。洗いざらい本音をぶつけたところで、返してくれるのは言葉だけだろう。僕が必要としているものは無償の愛だ。言葉に出来ない愛情だ。

 どこに行っても、どこまで行っても、僕はずっと独りきり。僕という人間は、言ってみれば、空き缶を手に無言で施しを待っている乞食のようなものだ。人々はその乞食を無視して通り過ぎていく。中には暴言を吐く人もいるだろう。それというのも、何をしたって自分に危害を加えることがないことを分かっているからだ。確かに、その通り。僕はその場に立ち尽くすか、その辺りをふらふらと彷徨う以外に能がない。ただ、この状況から抜け出したいという思いだけははっきりと持っていた。

 ずっとそうだった。誰かに構ってもらいたい。誰かに愛してもらいたい。いつも僕はそう望んでいる。けれども、無償で愛してくれるはずの人が無償で愛してはくれないから、代償を払うか我慢するかしかない。自分から手を伸ばさないと愛してもらえない。その結果がこのザマだ。

 兄との待ち合わせの場所に着くまで、僕はひたすら母のことを考えた。母の声や、手の温もりや、失踪する前に僕たちを結びつけていた何かを思い出そうとした。

 僕は母のためなら死んでもいいとさえ思ったのに、今ではもう、他人のようだった。

 だったら、ねえ、どうして僕を産んだの?

 僕は心の中で、母のことを呼び始めた。

 それは彼のためだったのかもしれない。声が枯れるほど呼んでいたにも関わらず、母は彼の方を振り向いてはくれなかったのだから。


 * * *


 約束の場所。

 僕を呼ぶ声。

 待たせてしまったのだろうか。

 彼は微かに微笑み、僕の到着を待っている。

 僕は言う。

 「お待たせ」

 彼は鈴の音のような声で、くすくすと笑う。
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