「母」
兄との夕食を終えて一息ついていると、不意に家に帰りたくなった。血は水よりも濃いなんて嘘だ。ここには、僕の求めているものは何もない。誰といても息苦しかった。兄は心ここにあらずといった僕の様子に気づいたのか、機嫌を損ねたような顔で黙り込む。でも、かまいはしない。かまってもらいたくない。今は出来るだけ放っておいて欲しかった。父に会ったことで、心の一部が持っていかれてしまったような気がする。持っていかれたのは、僕の無垢な部分だ。それでも、僕はまだ誰かに愛されることを諦める気にはなれない。何もせずに空想の世界に閉じこもってしまえたら、どんなに幸せだろう。空想の中では、どんな愛情でも手に入れることが出来る。
時々、理性などなくして狂ってしまいたい、と思うことがある。別の世界に逃げ込んで、現実の世界なんて忘れてしまおう、と。だって、本当に幸福なのは狂人と呼ばれる人々なのだから。
その一方で、今の状況を変えたいと願う気持ちもある。僕を裏切ることなく永遠に愛してくれる人が現れたら、きっと何もかもが上手くいくのだろう。
母は僕と再会してからの数年間、ことある毎に、「貴方のことを思う度に苦しんでいた。貴方のことを忘れたことなんて一度もなかった」と言い続けていたが、僕にはそんな言葉は信じられなかった。
僕たちは二ヶ月に一度の再会を続けていたが、それで母子の関係が修復されたわけではなかった。毎回期待して、今度こそ母を赦そうと誓うのだが、母はけして罪悪感で苦しむことはなさそうだった。僕が過去の話を持ち出そうとすると、また何ヶ月も連絡が取れなくなる。そして僕たちはまた、「子供を捨てるなんて酷い母親だ」「貴方の父親が悪い」と傷つけあうのだ。
何の前触れもなく突然大学の入学式に母が現れ、一緒に記念写真を撮った時も、僕はそれまでのことをなかったことにして、これからまた家族として生きていけるのだと喜んだ。けれども母は新しい家族のもとに帰っていき、三ヶ月もの間姿を消してしまった。
大学三回生の時、僕は始めて母の家を訪ね、母を奪った男に会った。母が失踪してから僕がどんな生活を送っていたか、感じやすい年頃の少年がどれだけ傷ついたかを打ち明けた。
男は、おじさんは、僕を息子として迎えたいと言った。そして、僕と兄を苦しめてしまったことを謝った。僕の中で、おじさんを憎む気持ちが和らいだような気がした。
それからまた少し経って、母と僕との仲も徐々にではあったが修復され、一緒に買い物をしたり食事をしたりするまでになった。人目を憚らず僕の腕に自分の腕を絡ませ、嬉しそうに笑っている母の顔は無邪気としか言い様がなかった。
でも、そうしている間、僕はずっとこの人は何を考えているのだろうと思っていた。僕にとって最も重要な時期に姿を消したくせに、まるで何事もなかったかのように現れ、母親面をする。僕が本当に必要としていた時、母さんは何をしていたの?
僕なんて、いないより悪いような気がする。誰からも愛されていないことを実感させられるのは辛い。
とにかく、僕はこのままじゃ生きていけない。何も知らなかった子供の頃のように母と一緒に暮らしたいけれど、そんな願いが叶うはずもない。今の僕のことを、母が受け止めてくれるはずがない。
でも、ふと考え直す。僕が何度傷つけられても母のことを愛しているように、母も心のどこかで僕のことを愛してくれているのかもしれない。だって、あんなに無邪気な顔で笑ってくれたのだから。
僕は決心した。母に会って、話をしよう。いつまでも苦しんでいるのは嫌だ。空想に逃げるよりも、現実をしっかりと生きたい。母さんに何を言われたとしても、これ以上僕に失うものなんてないじゃないか。だけど、やっぱり怖くて仕方がない。全身が鉛にでもなってしまったかのように、ずっしりと重い。でも、自分の力で何とかしないと……。
* * *
翌週、僕は電車を乗り継いで母に会いに行った。昼食には遅過ぎる時間に訪ねて行ったのにも関わらず、母は僕のために手料理を振舞ってくれた。
「今更あの人に会いに行くなんて」
父に会ったことを僕が話すと、母はそう言って首を横に振った。
「不快な思いをさせられるのは目に見えていたはずじゃない」
僕はテーブルを挟んで母と向かい合わせの位置に座り、母がサラダボールからレタスとパプリカを自分の皿に取り分けるのを見ていた。
「分かっていたけど、ケリをつけたかったんだよ」
「ケリって、貴方、あの人とはとっくに縁を切っていたはずでしょう?」
「そうだけど、あの時は手紙を出しただけだったし、もっと決定的な何かが欲しかったんだ。確かに馬鹿なことをしたと思うけど、僕には必要な出来事だったんだよ」
母は眉を顰めて皿の上のサラダに目を落とした。
「そりゃ、感情に流されて行動してしまったことは反省しているよ。でも、あの人のことも母さんのことも、僕にとっては簡単に割り切ることの出来ない問題だから」
「貴方の言いたいことは良く分かる。でもね、母さんは心配なの。折角何もかもを忘れていた貴方が、あの人のせいで嫌なことを思い出してしまうなんて良くないじゃない」
「母さんは分かってないよ。僕は何もかもを忘れてなんていないよ」
「でも、これまでずっと問題なくやってきたじゃない」
「母さん……」
僕は怒りに押し潰されそうになりながら、しばらくの間呆然としていた。次の瞬間、僕は叫んでいた。
「そう思ってるのは母さんだけだ!」
母さんがびくっとした。でも、目は伏せたままだった。
「そんなに大きな声を出さないで。近所迷惑でしょう」
「僕のことより近所の人の目の方が大切なのかよ!」
僕はまた叫んだ。
フォークを置き、顔を上げると、母さんは困惑した表情でじっと僕を見つめた。
「馬鹿なことを言わないで。貴方が一番大切に決まってるじゃない」
奇妙なほど優しい声だった。
僕は声を張り上げた。
「いつも口だけじゃないか!今だけそんな風に言って、時間が経てばまた僕を裏切るんでしょ!」
母さんは僕から目を逸らして、囁くように言った。
「私にどうして欲しいのよ」
「どうして分かってくれないんだよ」
呻くように僕は言った。
母さんは不意に椅子から立ち上がって僕の頬を両手で挟み、「ごめんなさい」と呟いた。そしてゆっくりと僕の喉に手を滑らせた。