「失望」
「貴方を殺して私も死ぬ。それでいいでしょう?いいのよね?」僕は母さんに首を絞められ、混乱していた。絶望の波が押し寄せてきた。悲しみと苦しみが襲ってくる。
母さんは手に力を加えながら、ぽろぽろと涙を零していた。
「何を言っても貴方は私を赦してくれないんでしょう?」
「当たり前だよ」
「私だって好きで貴方を捨てたわけじゃないのに」
僕は母さんを睨みつけた。
「自分勝手過ぎるよ。母さんはもう少し現実を見たらどうなの?母さんのせいで僕がどれだけ惨めな思いをしてきたと思ってるんだ。僕は母さんのせいで……」
「自分だけが辛かったみたいに言わないでよ」
「加害者のくせに何言ってるんだよ」
僕はそう言って、僕の喉から母さんの手を引き剥がした。
「私だけが悪いんじゃない」
頭を振りながら、母さんは呟いた。
「私だって被害者なの。そりゃ、貴方に辛い思いをさせたことは後悔しているけど」
これまでの出来事が走馬灯のように脳裏を過ぎる。
「どうして僕を捨てたの?」
「貴方の父親のせいよ」
母さんは口ごもるように言った。
「自分は何も悪くないみたいに言うんだね」
僕は言った。
「今僕が聞いてるのは、父さんのことじゃなくて、母さんのことだよ」
「理解してもらえないでしょうけど、あの時は仕方なかったの」
「仕方なかったなんて言葉で誤魔化さないでよ。計画的に出て行ったくせに。僕が何も知らないとでも思ってるの?おじさんのことはどう言い訳するの?」
短い沈黙。
「それは」
「置いていかれた僕や兄さんがどうなるか考えなかったの?」
「あの人が何とかしてくれると思ってたのよ」
母さんは俯き、それから急に大きく天井を振り仰いだ。そして視線を横にずらし、生気のない目で僕を見つめた。
「自分が見限った人間に子供を任せて平気だったんだ」
僕は平静さを装って、何とか言ってのけた。
「私、あの時はどうかしてたの」
僕は母さんの手を離し、全身の力を抜いた。それからしばらく黙り込んで、ようやく言った。
「もういいよ」
僕は嘘を吐いた。
「本当に?」
「うん、もうどうでもいい」
「どうでもいいなんて言わないでよ。母さんは貴方と仲直りしたいのよ。いつまでもいじけてないで。ね?」
「いじける?」
「子供の頃と全然変わってないんだから」
母さんはわざとらしくおどけた口調で言った。
「馬鹿じゃない?」
僕は笑い声を上げた。その声は室内に甲高く響いた
「何それ?わけ分かんないよ。仲直り?いじける?僕が子供の頃と変わってないだって?」
「母さんはね」
「もういいって言っただろ!」
僕は叫んだ。
「これ以上僕を惨めにしないでよ!」
「そんなつもりじゃ」
母さんが言った。
僕は何も言わずに母さんを見た。
「貴方を怒らせるつもりはなかったのよ」
母さんは言い張った。
「そういうのも嫌なんだよ!」
「でも、貴方がどんなに嫌がっても、私は貴方の母さんなの」
僕は母さんの手を振り解いて、椅子から立ち上がった。
「もういいって言ってるだろ。母さんのことが全然分からなくなった」
歩き出すと、僕の肺に一気に空気が流れ込んできた。
母さんはダイニングから動こうとはせず、その場でしくしく泣いていた。
僕は母さんの家を出た。涙で目が霞む。頭の中がぐちゃぐちゃだった。友達も、兄さんも、父さんも、母さんも、誰も僕のことを分かってくれない。愛してくれない。
僕はすっかり打ちのめされ、信号も確かめずに横断歩道を渡ろうとした。悲鳴のようなブレーキ音が響き、トラックの車体が僕の身体を掠める。僕なんて轢かれて死んでしまえば良かったのに。運転手には悪いけど、今の僕には他人のことを気にかけている余裕なんてない。それに、死んでしまえば後のことなんて考える必要もなくなる。
けれども、僕は誰かに手を引かれるようにして横断歩道を渡りきった。目の前には夕焼け空と小さな公園があった。
僕は公園に入ると、ところどころペンキの剥げた白いベンチに腰を下ろし、ぼんやりと空を仰いだ。
不思議なものだ。僕なんていなくても、全ては移り変わっていく。