「Answer」
泣きたくはなかったが、涙がひとりでに頬を伝って流れ始めると、自分ではもう止めようがなかった。空を仰ぎながら、僕はずっと泣いていた。もちろん僕は、酷くがっかりしていた。それと同時に、涙を抑えられない自分が情けなくもあった。僕は子供じゃないんだ。僕はとうに成人を迎えた社会人であり、こんなことでいちいち泣いたりしていい歳じゃないんだ。そう自分に言い聞かせて涙を止めようとしたが、呼吸困難に陥る寸前まで泣き止むことは出来なかった。誰からの愛情も得られないばかりか、僕には誰もいなかった。その事実に、僕はほとほとうんざりした。あとは一切が、孤独と、沈黙と、座視だった。僕は人々が家路を急ぐ中、ただ一人別次元に存在する人間のように座っていた。人々が僕に目をくれないのと同じに、僕も周りのことはまるで目に入っていなかった。傷ついて動けない、薄汚れたちっぽけな野良犬のようだった。
意識と無意識の狭間で、ここ数日の出来事が遠ざかっていく。徐々に覚醒していく脳は、苦痛を回避することを選択したようで、僕から僕以外の人間について考えることを禁じた。何とも説明し難い現象ではある。あるいは、闇を覗き込んだ僕は、そこに始めて自分自身を見つけたのかもしれない。
僕は明確な意図を持って、友人や兄、父、それに母に会いに行ったわけではなかった。何を焦っていたのか、自分でも分からなかった。それどころか、実際に彼らと接触するまで、自分が何を望んでいたのかさえ分かっていなかったのだ。
愛情とささやかな献身によって僕は救われる。けれども、僕が助けを求めて伸ばした手を誰一人として掴んでくれなかった。
愛情、愛情とは一体何なんだろう。僕の求める愛情は言葉に出来ない何かだ。それが僕に向けられ続ける限り、例えどんなことがあろうとも、顔を上げ、前を向いて歩けるような、そんな何かだ。
けれども、僕がそれを渇望するのは、あまりにも利己的なんじゃないだろうか。本当は僕の方が真っ先に彼らを許し、愛さなければならないんじゃないだろうか。いや、そんなことは分かっている。分かっているけど、きっかけが掴めない。僕は僕の望む他人の理想像から、僕自身が遥かに隔たっているくらいのことは自覚している。僕はいつかその理想像に近づくことが出来るだろうか。
どうして僕は素直に助けを求めることが出来なかったのだろう。どうして僕は誰かを信じることが出来なかったのだろう。それにはきっと理由があるのだろうけど、それでも、他人に心をさらけ出すことが出来ないのは、寂しいことだと思う。
じゃあ、僕自身に対しては?
僕は僕自身に対して正直だっただろうか。僕は僕を信じていただろうか?愛していただろうか?
僕の頭の中で車輪が回り出し、少しずつ、世界が開けていく。今なら僕は彼の質問に答えることが出来る。
そうだ、僕は。
誰かからの愛情を手に入れるために始めた行動は何一つ上手くいかなかった。それなのに、今や僕はほっとしていた。というのは、たぶん、ずっと前から抱いていた疑問の答えが見つかったからだと思う。
「僕は僕が好きだ。大好きだ」
気に入らないところも、もっといい人間になりたいという願望もあるけれど、それでも僕は今こうして思案する僕自身のことを愛している。そして僕と同じように、少なからず自我のある人間なら、誰もが皆自分自身のことが好きなんだろう。
だから他人を傷つけても自分を守ろうとするし、仮に消えてしまいたいだなんて考えても、この世に存在している限り、その人はやっぱり心のどこかで自分のことを愛しているんだ。
僕はほっとした。
生きている。それだけで十分だった。生きている、僕は僕を否定しない。
僕は変わらない。変わる勇気なんてない。ただ何となく生きているだけの存在でいい。だって、皆そうなんだから。それぞれペースが違うだけで、同じ時間を生きていることに違いはない。それぞれのペースで生きていけばいい。その内容に文句をつける必要なんてない。競う必要なんてない。比較されることに意味なんてない。自分を肯定し続けることが出来るのなら、ただそれだけでいい。
茜色から藍色に移り変わる空を眺めて、僕は静かに息を吐いた。星の飾りの散りばめられた雲の下では、パステルピンクのマンションやクリーム色の一軒家が黒く染められていく。そこには笑い声も溜息も、時にはただの静寂もあって、その息吹は朝が来れば色を取り戻す街のように変わっていくのだろう。
公園に設置された所々ペンキの剥げた簡素なベンチの肘掛を握り、ゆっくりと立ち上がると、僕は一歩を踏み出した。
帰ろう、いつもの毎日へ。
不満だらけで退屈な、けれども安定した毎日へ。