「re:birth」
六時五十五分。携帯のアラームで僕は目を覚ます。
昨日は一日中夢を見ていた。どんな夢だったのかは覚えていないが、楽しい夢だったらしい。目が覚めた時、僕は笑っていたからだ。幸福感に満ちた笑顔なのが、自分でも分かった。友達と馬鹿騒ぎをして、ひとしきり笑った時のようだ。あの時と、よく似ている。
出勤するには早過ぎる時間だったが、僕は身支度を済ませると、弁当も作らずにさっさと家を出た。
街路はまだ静けさに包まれ、爽やかで、木漏れ日に満ちている。歩道に柔らかな影が落ちている。すれ違う人もいない。穏やかな朝だ。
僕はこうした朝のひとときが何よりも好きだった。無人の町を歩いていると、まるで絵の具を乗せる前の真っ白な画用紙の上に、初めて筆を置くような気分になる。
僕は生きている。さあ、ここにいる僕を見て欲しい。名前も一つでいいし、身体も一つでいい。君に話し掛けているんだよ。僕は君のことを考えてはいない。感じているんだ。
君はそこにいる。誰が何と言おうとも。君の頭の中は空虚だ。どうして自殺なんて考えるんだろう?君は自殺をするのか?そんなことはするまでもないし、遅かれ早かれ誰にも死はやってくるのだし、思わぬタイミングでやってくるものなんだ。それは日常にありふれたことであり、わざわざ労力を費やすようなものではない。自分の人生を悲劇に仕立て上げたところで、何の意味があるのだろう?悲劇なんてどこにでも転がっているのに、これ以上煽ることもない。
最後の食事、最後の会話、最後の笑顔、最後の夜、それらは僕らには分かりようがないし、予め分かっていたとしても、死の一秒前だとしても、それでも現に生きているのだ。
僕は遠からず、君の中で密やかに眠りにつくことになるだろう。君はそれがいつか分かっているのだろうか?僕は死ぬ。そう、君は分かっているはずだ。それも、ずっと昔から。僕と一緒に過ごしてきた人生が、ゆるやかに終わっていく。その真実から逃げてはいけない。僕には止めることは出来ないし、君にだってどうすることも出来ない。何故なら、それは君が生まれた時から既に始まっていたことなのだから。黒い絵の具の中にいくら白い絵の具を混ぜようとも、完全な白にはならないように。
僕は何年もの間、君の身近にいて、話し掛けることも控え、白い画用紙の上にこの世を描いていく君のことを見守りながら、じっと待ち続けていたんだ。僕に言わせれば、君は仔細を描き過ぎている。
だが、君は何もかもを塗り潰してしまった。僕もそこにいたのに。全身全霊を傾けて。
これ以上僕から得るものなど何もないということを、君はとっくに知っているはずだ。それでもまだ強引に僕に固執し執着する君は、呆れるばかりに絵の具を塗り重ねるし、それだけでなく、まだ描かれるべきではない場所にまで色を着けてしまった。
僕は問い掛ける。
「君は僕が嫌いなの?」
彼は返事をしない。何もかも分かっているのに。何から何まで。
僕に向けられた視線の中に、狂おしいまでの愛情への渇望を感じ取った。これまでずっとそうであったように。最初から。僕が生まれたあの時から。
* * *
会社に休暇を申請した後、僕は例の友達に電話をし、今から遊びに行かないかと誘った。
「今から?」
彼は聞いた。掠れて、ほとんど眠っているような声だった。
「お前さえ良ければだけど。っていうか、今日休み?」
僕は駅の隣にある喫茶店の中にいた。木製のテーブルの上には、プラスチックのコップに入ったミルクティーが載っている。
「あ、うん。俺は休みだけど。お前今日会社は?何かあった?」
彼は聞いた。
小さなアパートの部屋のベッドに、寝巻きで身体を横たえている彼の様子が目に浮かんだ。掛け布団が足元でぐしゃぐしゃに丸まり、部屋の中にはアルコールの匂いが充満している。
「リフレッシュ休暇ってやつだよ。たまにはいいだろ?」
「ふうん、お前がそういうことするのって珍しいな」
「悪いかよ」
彼の声は面白がるような、笑っているような調子を帯びてきた。
「それで、何するつもりなの?」
「楽しいこと」
彼は電話に向かって溜息を吐いた。
「今までにやり損ねたことをやる」
「何それ?」
「色々」
「おい、またハンバーガータワーでも作る気じゃないだろうな」
「同じことはしないよ」
「お前ってたまに突拍子もないことやらかすよな」
「うん、知ってる」
僕は笑いながら言った。
「今回は期待しててくれていいよ。絶対楽しいから!」
僕の声は意図したより大きくなり、それを聞いた隣の客が怪訝そうな顔をした。視線を合わせて微笑むと、客は慌てて視線を逸らした。友達は黙り込んだ。
「何だよ、嫌なの?」
僕は彼に言った。
「僕と一緒に遊びたくないっていうのなら、断ってくれてもいいけど」
彼は低い呻き声を発し、それから言葉を発した。
「どこに行けばいい?」
「いつもの駅の改札前」
「分かった」
隣の客がトレイを持って立ち上がるのを見ながら、僕は少し考えた。これから僕がやろうとしていることを考えると、彼に忠告をしてやるべきだと思った。
「あのさあ」
僕は言った。
「とりあえず、走って逃げられるようにスニーカー履いてこいよ」
「本当に、何する気だよ?」
「だから言ったじゃん。色々だって」